横浜の写真館 of 七五三写真•家族写真•卒園写真•入園入学写真•成人式の記念写真•ブライダルスナップや証明写真や横浜ロケ撮影は坂本写真館

写真館




横浜の写真館

江戸時代から明治に時代が変わろうとしていた頃、下岡蓮杖(1823~1914)は文久2年(1862年)日本人として始めて横浜野毛に写真館を開業しました。日本に始めてもたらされた写真技術は、この横浜から全国に新しい時代の到来を告げる革新的文化として拡っていきました。横浜は日本の写真館発祥の地です。
そして一世紀半、いまデジタル技術の進展とインターネットというヴァーチャルコミュニティーの隆盛が日本文化をのみ込もうとしています。横浜市写真師会はこの急激な変化に地域に根ざす文化創造の拠点として専門家として技術の研鑽と社会的変化に積極的に取り組み、新たな写真館の姿を見ていただくように頑張っております。    

参考文献:横浜写真師会

日本の写真館

日本国内で、最初の営業写真館は幕末の長崎で上野彦馬が開業した「上野撮影局」とされる。写真が一般に広まろうとしていた明治初期の頃、カメラは木製暗箱と呼ばれる大きなもので三脚は必須。感光材料は当初写真湿板であり、間もなく写真乾板となった。これらはベースがガラスであるためちょっとしたことで割れてしまうので自店のスタジオや近隣で撮影し、できるだけ早く現像する必要がある。
つまり、職業として写真を撮る者は、自店にスタジオを用意し、写真の撮影から現像、プリントまで一式を行うことが必須であり、これが現在の営業写真館となった。乾板を使った撮影方法は、大判のシートフィルムが普及する1950年代まで続いた。

                                                                       参考文献:ウィキペディア

下岡蓮杖(シモオカ レンジョウ)
文政6年2月12日(1823年3月24日) - 1914年3月3日)

オランダ船のもたらした銀板写真を見て驚嘆し、以来、写真術を学ぼうと決心した。そのためには外国人と近づくのが近道であると、数回にわたって浦賀に来たアメリカ、ロシアの船舶の外国人に接したが目的を達することができず、横浜開港の談判のために来日したタウンゼント・ハリスの通訳であるヘンリー・ヒュースケンから写真撮影の形式を学んだが、薬品の名前を知ることができなかった。その後、アメリカの写真家ウンシン(ジョン・ウィルソン)と交わり、ウンシンの写真機と蓮杖の絵とを交換し、以来、努力と財産の全てを傾けて写真術の研究に没頭した。

文久2年(1862年)、40歳で横浜の弁天通に写真館を開業する。これが横浜における営業写真館の最初であるとされる(江戸では前年に鵜飼玉川が写真館を開設している)。当初は日本人は写真を撮影すると寿命が縮まると称してこれを嫌い、客はいずれも外国人であったが、迷信は次第に消え店は繁盛した。

参考文献:ウィキペディア

上野 彦馬(ウエノ ヒコマ)
天保9年8月27日(1838年10月15日) - 明治37年(1904年)5月22日)

天保9年(1838年)、長崎の蘭学者・上野俊之丞(しゅんのじょう)の次男として生まれる。広瀬淡窓の塾、咸宜園で学び、その後の安政5年(1858年)にはオランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトを教師とする医学伝習所に新設された塾、舎密試験所に入り舎密学(化学)を学んだ。このとき、蘭書から湿板写真術を知り大いに関心を持つ。同僚の堀江鍬次郎らと共に蘭書を頼りにその技術を習得し感光剤に用いられる化学薬品の自製に成功するなど、化学の視点から写真術の研究を深める。また、丁度来日したプロの写真家であるピエール・ロシエに学んだ。その後、堀江と江戸に出て数々の写真を撮影し耳目を開いた。文久2年(1862年)、堀江と共同で化学解説書『舎密局必携』を執筆した。
同年、故郷の長崎に戻り中島河畔で上野撮影局を開業した。ちなみにこれは日本における最初期の写真館であり(ほぼ同時代に鵜飼玉川や下岡蓮杖が開業)、彦馬は日本における最初期の職業写真師である。同撮影局では坂本龍馬、高杉晋作ら幕末に活躍した若き志士や明治時代の高官、名士の肖像写真を数多く撮影した。

維新後の明治7年(1874年)には金星の太陽面通過の観測写真を撮影(日本初の天体写真)、明治10年(1877年)には西南戦争の戦跡を撮影(日本初の戦跡写真)、同年に開催された第1回内国勧業博覧会では鳳紋褒賞を受賞するなどその写真は歴史的・文化的にも大いに評価されたのである。
一方で海外に支店を持つ(ウラジオストク、上海、香港)など写真業繁栄の傍ら後進の指導にもあたり、富重利平や薛信二郎ら多くの門人を輩出した。明治37年(1904年)、長崎で死去。享年67。

参考文献:ウィキペディア

横山松三郎(ヨコヤマ マツサブロウ)
天保9年10月10日1838年11月26日) - 明治17年(1884年月15日)

1862年(文久2年)(24歳)、箱館奉行の香港・バタヴィア行貿易船「健順丸」に乗り込み海外で写真を学ぼうとしたが、一旦は品川港で渡航中止となった。しかし、翌1864年に今度は上海へ渡航でき、約1ヶ月半滞在して欧米の洋画・写真を見聞した。帰国後、横浜の下岡蓮杖に印画法を教わり、箱館に帰った。
1865年(元治2・慶応元)(27歳)、再び下岡蓮杖に写真と石版術を教わった。
1868年(明治元)(30歳)、下岡に更に石版印刷を学んだのち、江戸両国元坊に写真館を開き、上野池之端に移って通天楼を称した。箱館戦争が勃発して、現地の母を見舞った。
1871年(明治4年)(33歳)、3月、蜷川式胤の依頼で、荒れた江戸城を撮影し、その写真の一部は翌年蜷川により、『旧江戸城写真帖』に編集された。1872年、湯島聖堂大成殿で文部省博物局が3月 - 4月一杯催した日本初の博覧会を、撮影した[1]。5月から10月まで、町田久成、蜷川式胤らが、伊勢・名古屋・奈良・京都の、古社寺・華族・正倉院の宝物を調査した『壬申検査』に、同行した[2]。
1873年(明治6年)(35歳)、通天楼に洋画塾を併設した。1874年、漆紙写真と光沢写真を作った。1876年、通天楼を譲渡して陸軍士官学校教官となり、フランス人教官アベル・ゲリノー(Abel Guérineau)から石版法や墨写真法などを教わり、研究した。1877年、電気版写真を完成し、ゴム写真の研究した。
1878年(明治11年)(40歳)、士官学校の軽気球から日本初の空中写真を撮った。蜷川式胤が、松三郎の写真を編集した『観古図絵城郭之部』を刊行した。1879年、京都の洋画展に油絵を出品した。
1881年、肺病再発のため、陸軍士官学校を辞し、『写真石版社』を銀座に開いた。この頃、写真油絵法を完成した。

参考文献:ウィキペディア

臼井 秀三郎(ウスイ シュザブロウ、生没年不明)

1867年(慶応3年)、横山松三郎に次ぐ下岡蓮杖の二番目の弟子となり、蓮杖の「蓮」の字を貰って「蓮節」と名乗った。遅くとも1876年(明治8年)頃までには横浜太田町1丁目13番地写真スタジオを開業したようである。

1879年(明治12年)に来日したユリシーズ・グラント元アメリカ合衆国大統領を撮影している。1882年(明治15年)、英国の博物学者のヘンリー・ギルマールの日本旅行に同行し、日本各地の写真を撮影した。この際の写真がケンブリッジ大学に残っている。1884年(明治17年)、デビッド・ウェルシュ(David Welsh)と組んで横浜居留地16番に横浜写真社をおこした。臼井が写真製作、ウェルシュが販売に当たったようである。横浜写真社はその後、アドルフォ・ファルサーリに買収されたようだが、臼井自身は太田町に戻って写真スタジオを経営していた。

参考文献:ウィキペディア

江崎礼二(エザキ レイジ)
弘化2年3月3日(1845年)-明治42年6月7日(1910年)

当時の写真は湿版写真であり、露光時間が5-15秒必要なだけでなく撮影前に感光材料を全て自分で作らなくてはならず、スタジオ外での撮影時には小型の暗室も持ち歩く必要があった。江崎は1884年(明治16年)5月19日、当時輸入され始めた写真乾板を使用して隅田川での水雷の発火演習を撮影し、早撮りの江崎として知られることとなった。天体写真や夜間撮影にも成功した。
1898年(明治31年)には東京市議会議員・市参事会員に選出された。議員時代には東京における高層建築物の先駆けである浅草凌雲閣を発案している。
1910年(明治42年)6月7日、65歳で死去。四男は海軍技術中将の江崎岩吉。

参考文献:ウィキペディア